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クラウン

公式戦日程表

1977年(昭和52年)公式戦日程表[おもて]

1977年(昭和52年)公式戦日程表[うら]

1978年(昭和53年)公式戦日程表[おもて]

1978年(昭和53年)公式戦日程表[うら]

ファンブック

1978年(昭和53年)[おもて]

1978年(昭和53年)[うら]

1977年(昭和52年)[おもて]

350円

1977年(昭和52年)[うら]

色紙

球団からのおたより

1978年(昭和53年)5月

ライオンズ友の会断られる😢

いろいろ

1978年(昭和53年)

20円

1978年(昭和53年)

1979年(昭和54年)[おもて]

1979年(昭和54年)[うら]


クラウンライター時代
1976年10月12日に命名権を持つ冠スポンサーが桜井義晃率いる廣済堂グループ傘下のクラウンガスライターと提携し、球団名がクラウンライターライオンズ(Crown-Lighter Lions)に改まることが決定した(本来の社名である「ガス」は球団名が長くなってしまうために省略。10月15日にパ・リーグより承認)。しかし、太平洋クラブから若干の資金援助が続いていたため、引き続きユニフォームの右袖には太平洋クラブのロゴマークが付けられる。

1977年
投手陣は大洋から移籍の山下律夫がチームトップの12勝を挙げるものの、エース東尾、前年11勝の古賀正明がそろって不調。打撃陣は本塁打129本はリーグ2位だったが、ボブ・ハンセンの.269がチーム規定打席到達者で最高打率だったなど打線が低迷。前期6位、後期は8月中旬まで2位をキープするなど、健闘したものの、最終的には5位に転落。通年では2年連続6位の最下位に終わる。11月のドラフト会議では法政大学の江川卓を指名するものの入団を拒否される。鬼頭監督が辞任し、後任には根本陸夫が監督に就任。

1978年
真弓明信、立花義家など若手が台頭し、レギュラー定着、中日から移籍のウィリー・デービスも打率.293と活躍したものの、23勝した東尾修以外の投手陣の駒不足が露呈した。前期は4位。後期は開幕から10試合で0勝7敗3分けで、その後は一時5割まで到達するものの、優勝争いに加わることはなかったが、通年では2年連続の最下位を免れ、5位。